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도자사 자료(일본 학자들의 중국 도자사에 관한 연구)

작성자 : 관리자
조회수 : 2271
중국 도자사에 관한 일본 학자들의 연구

인류 문화는 선진에서 후진으로 흘러가는 것이 순리이기도 하지만 특히 우리 도자기는 중국의 영향을 많이 받았기에 우리 도자기를 확실히 하기위하여는 중국 도자사를 숙지할 필요가 있다는 생각에서 탐독하고 정리하였든 것 입니다.

이 자료는 오래전의 연구이고 필자가 보지 못한 중요한 자료들도 있을 것입니다. 그라고 지금은 중국이 문호를 개방하였으니 새로운 정보가 많이 있을 것 입니다, 낡은 자료이기는 하나 필자가 정리하였던 자료이기에 제공하니 보완하여 활용하시기 바랍니다.

일본도 도자사를 연구하는 학자가 많지 않은 듯, 목록를 정리하고 보니 인명이 중복되는 경우가 많습니다. 인명은 같아도 연구한 주제는 다르기에 인명을 모으지 않았습니다.

目次

1. 岡崎 敬

2. 長谷部樂爾

3. 佐藤雅彦

4. 小山富士夫· 失部良明

5. 失部良明

6. 中野 徹.

7. 愛宕松男

8. 佐藤雅彦

9. 失部良明

10. 長谷部樂爾

11. 藤岡了一

12. 中野 徹

13. 三上次男

14. 長谷部樂爾

15. 失部良明

16. 佐藤雅彦

17. 憑先銘

18. 佐久間重男

19. 藤岡了一

20. 長谷部樂爾

21. 佐藤雅彦

22. 失部良明

23. 西田宏子

24. 中野 徹

25. 佐久間重男

26. 佐藤雅彦

27. マカレットーメドレ著, 西田宏子 譯

28. 西田宏子


資料

1. 岡崎 敬

岡崎 敬 著,「隨·唐と陶磁」,『世界陶磁全集』 11卷「隨⋅唐」(東京: 小學館, 1976), 171쪽.
“隨王朝の性格とその事業...隨の文帝(楊堅)の父は楊忠といい,その家柄は北魏の北方の守り,六鎭の一つである武川鎭の出身であった。北魏末,北方にとり殘された六鎭の將兵が洛陽に移った鮮卑族の帝室に對しで反亂をおこし,ついで宇文泰を首領としで陜西省に入り西魏·北周の政局の指導的な役割を果たたのでる。”

岡崎 敬 著,「隨·唐 文化と陶磁」,『世界陶磁全集』 11卷「隨⋅唐」(東京: 小學館, 1976), 174쪽.
“煬帝は三回にわたる高句麗侵略の軍をおこしたのである。612年軍糧を運河で涿郡に集結し,水陸二軍より高句麗を攻めたが, その反擊にあって失敗を蒙った。613年, 614年にも高句麗を攻めたが,隨の將兵にまったく戰意なく,失敗に終り,歷年の使役, 徵募に苦しんだ農民の反亂を招き,隨 は急速に崩壞の道を步んたのである。...東方の 高句麗に對して, 663년(龍朔3)唐軍は新羅と連合して百濟とこれを救援する日本軍を破り,さらに668年(總章元)には高句麗の平壤城を占領しここに安東都護府を置いた。その後, 朝鮮半島に新羅國,中國東北部は渤海國が安定したので唐の勢力は僚河の西方まで撤退し,これらの國國と經濟的文化的交流が行なわれることになるのである。”

岡崎 敬 著,「隨·唐 文化と陶磁」,『世界陶磁全集』 11卷「隨⋅唐」(東京: 小學館, 1976), 181쪽.
“唐三彩は 現在, 唐墓より出土する墓誌の 紀年銘より見て則天武后の末年(7世紀末 8世紀初頭)より,玄宗の開元·天寶代(8世紀 中葉)にかけで 製作されたものであり,天寶年間,安史の亂を契機として急激に姿勢を消していくことが明かにされる。

岡崎 敬 著,「隨·唐 文化と陶磁」,『世界陶磁全集』 11卷「隨⋅唐」(東京: 小學館, 1976), 186-187쪽.
“朝鮮半島では, 660년, 新羅は唐軍と聯合して百濟を滅亡さしめ, 668年には高句麗を破り,さらに676に 唐軍を擊退して, 統一新羅王朝が成立した。...統一新羅時代には,いはゆる「新羅燒」というすぐれた陶質土器が燒かれていて,日本の須惠器のように主流をなしでいる。また綠鍮陶もつくられていで,印文の上に黃錄, 黃褐の鉛釉をかけいる壺などがあり, ”

2. 長谷部樂爾

長谷部樂爾 著,「隨の陶磁」,『世界陶磁全集』 11卷「隨⋅唐」(東京: 小學館, 1976), 192쪽.
“唐代 三百年は隨の天下統一の 後をうけて繰り廣けられたもので,その起點としての隨の役割の重要さも見のがすわけにはいかない。陶磁史における隨代の意義もまさにこれらに等しい。隨代三十年の陶磁器は,前後數世紀の陶磁器の流れを一つに結びつける。”

長谷部樂爾 著,「隨の陶磁」,『世界陶磁全集』 11卷「隨⋅唐」(東京: 小學館, 1976), 197쪽.
“白磁の出現が南北朝後期, あるいは隨代にあることは,改めていうまでもない,しかもの初期の狀況は,靑磁の中間的なもの,靑磁のような白磁, 白磁のような靑磁の中から,したいに白磁らしい白磁が成長してくるといったかたちで,”

長谷部樂爾 著,「唐の白磁と黑釉陶」,『世界陶磁全集』 11卷「隨⋅唐」(東京: 小學館, 1976), 204쪽.
“白磁が中國で完成されたのが隨·唐の間にあることは, 誰もが認めてゐることである。その最初の出現は南北朝後期,6世紀中ごろかぞのいくらか前と思われる が初期のものは靑磁と白磁の中間的なもので, そうした中から白磁らし白磁が成長してくるものである。”

長谷部樂爾 著,「唐の白磁と黑釉陶」,『世界陶磁全集』 11卷「隨⋅唐」(東京: 小學館, 1976), 209쪽.
“隨白磁の特徵の一部が,また初唐白磁の特徵でもあることは改めていうまてもない。隨代にみられた靑味のある透明釉のかかったものは,初唐と思われる白磁にも少ながらず見受けられ,靑磁と白磁との區別がたてにくい場合がある。”

3. 佐藤雅彦

佐藤雅彦 著,「隨·唐の加彩 ·單色彩 三彩釉の 土偶」,『世界陶磁全集』 11卷「隨⋅唐」(東京: 小學館, 1976), 215쪽.
“隨· 唐の 土偶を 前代まての 土偶と 分かつ 大きな 特色は, ぞの肌の白さにあるといっていい,もちろん例外はある。相變わらずの灰黑色の肌に加彩した 灰陶の 土偶は 唐代にはいっても存續している,しぎし例はいたって少ない。だから大部分は白い肌になっだと考へていい。もっとも白い肌にも二樣ある。鐵分の少ない白土を用いた。”

佐藤雅彦 著,「隨·唐の 單色釉 ·三彩 ·絞胎」,『世界陶磁全集』 11卷「隨⋅唐」(東京: 小學館, 1976), 253쪽.
“『舊唐書』卷四四の職官志によれば, 加彩, 單色釉, 三彩を 含む 明器としでの土偶や器物が甄官署という役所によってまかなわれたことが知られる。これらの明器は帝室の御用に供すべく造られ,またその一部が皇帝から貴族, 高官の葬禮に下賜されたゃのである。”

4, 小山富士夫· 失部良明

小山富士夫· 失部良明 共著,「唐·五代の靑磁」,『世界陶磁全集』 11卷「隨⋅唐」(東京: 小學館, 1976), 255쪽.
“越州窯は唐代隨一の名窯とされ,六朝以來長い傳統を持つ窯である。唐初の越州窯の靑磁は 南北朝·隨は流れを汲み,器形·釉調も古越州に近いものではないかと想像されるが,今日まだ唐初の墓から出土した資料がないので, はっきりしたことはいえない。”

小山富士夫· 失部良明 共著,「唐·五代の靑磁」,『世界陶磁全集』 11卷「隨⋅唐」(東京: 小學館, 1976), 268쪽.
“文獻が傳へる有名な靑磁窯は後周の柴窯である。後周の世宗は雨が過ぎて空が晴れた時のような靑い色のやきものをつくれと命じたと傳えられ,これを俗に雨過天靑瓷とよんでいる。『博物要覽』には「昔人論 柴窯 曰 靑如天 明如鏡 薄如紙 聲如磬」とある。また「事物紺珠」には「柴窯製精色異爲諸窯之冠」とある。”

5. 失部良明

失部良明 著,「晩唐·五代の陶磁」,『世界陶磁全集』 11卷「隨⋅唐」(東京: 小學館, 1976), 271쪽
“越州窯靑磁のくようによく溶けたなめらかな靑磁ではなく,還元燒成があまり强くないために,黃ばんた靑綠色の釉色のものが多く, 細かい貫入が一面に入って, がさついた荒れた釉肌の靑磁が基調である。”

失部良明 著,「晩唐·五代の陶磁」,『世界陶磁全集』 11卷「隨⋅唐」(東京: 小學館, 1976), 281쪽
“黃釉,ここでいう黃釉は低火度鉛釉系のそれではなく,高火度の 黃色釉である。靑磁の釉藥が酸化焰で燒製されたために黃ばんた色調を呈する場合や, 白磁胎や白化粧地に透明釉がかかってこれが透明度の高い黃色に燒き上がる場合の二つがあり, いずれも白磁や靑磁の分派である。”

失部良明 著,「晩唐·五代の陶磁」,『世界陶磁全集』 11卷「隨⋅唐」(東京: 小學館, 1976), 283쪽.
“五代定窯の製品は素地が純白で白化粧の必要のない場合かかなりあるらしく,これは素地の精選は度合が著く進んだことを示している,この時代の定窯の器胎は,宋代に比べて厚手につくられていれのが特色で,器形もすごぶる個性的になり,五代樣式ともいうべき獨特な造型を完成させている。

失部良明 著,「晩唐·五代の陶磁」,『世界陶磁全集』 11卷「隨⋅唐」(東京: 小學館, 1976), 289쪽.
“ここでいう繪付陶器は下繪付陶んざす,すなわち釉下に顔料で文樣を描いたやきものである。釉裏彩では古越磁の中で,東晋時代の靑磁に先驅的な鐵斑文をもつものがあるが。筆彩で釉裏に文樣をあらわす劃期的な意匠技法は晩唐時代に始まった。窯はいまのところ長沙の瓦渣坪窯, 四川の邛峽窯,琉璃敞窯と陜西の耀州窯とがわかっている。”

6. 中野 徹

中野 徹 著,「隨`唐陶磁の文樣」,『世界陶磁全集』 11卷「隨⋅唐」(東京: 小學館, 1976), 290쪽.
“當代陶磁の裝飾法には貼花,印花,刻花それに三彩釉をかけ分けたり,これをもって文樣を描出するなどがある。パルットメ文, 葡萄文, 海石榴華文, 寶相華文, 流雲文, 蓮文. 等がある,

7. 愛宕松男

愛宕松男 著,「宋代の文化と陶磁」,『世界陶磁全集』 12卷,「宋」(東京: 小學館, 1977), 139쪽.
“五代の分裂から宋の統一,かっては東アジアに君臨した 名文王朝(唐)も,八世紀中葉に生じた安祿山の內亂を界として衰退の一路をたどり,十世紀に入った早早には,ついに臣下の宣武軍節度使朱全忠に國を奪われることになった。907年というこの年以降,約半世紀にわだって,黃河流域を占める中原地方にはそれぞれ宗主國を自稱する梁,唐,晉,漢,周の五王朝が目まぐるしい交替を繰り返す一方,天下の各地にはこれまた獨立國を呼乎する王氏...”

8. 佐藤雅彦

佐藤雅彦 著,「宋の白磁」,『世界陶磁全集』 12卷,「宋」(東京: 小學館, 1977), 156쪽.
“宋代の白磁としてもっとも名高い定窯は,晩唐ごろから業を始める。1941年 小山富士夫氏によって河北曲陽縣澗磁村に發見された定窯の窯址は,1960年から3年にわたって河北省文化局により發掘調査が行なわれ,その結果 晩唐· 五代· 宋の三層に分かれることが確認された。”

佐藤雅彦 著,「宋の白磁」,『世界陶磁全集』 12卷,「宋」(東京: 小學館, 1977), 173쪽.
'景德鎭の名は,中國陶磁の大生産地帶としてつとに高い。ことに元代以後にあっては,靑花や五彩を中心に,文字通り獨壇場として陶磁史に君臨した名窯である。”

9. 失部良明

失部良明 著,「宋代靑磁の展開」,『世界陶磁全集』 12卷,「宋」(東京: 小學館, 1977), 179쪽.
“宋時代の陶磁界は, 靑磁· 白磁· 黑釉などの釉技を基調にして,數多くの名窯が至藝を披瀝した時代であり,それら頂点において傘下の諸窯が各地に浸潤して全國的な規模で窯藝が繰り廣げられていった。そうした趨勢はすでに晩唐 五代に始まっており,その基盤にのって百花繚亂たる精華が咲き誇った空前絶後の時代といって差し支えない。”

10. 長谷部樂爾

長谷部樂爾 著,「宋の官窯靑磁」,『世界陶磁全集』 12卷,「宋」(東京: 小學館, 1977), 223쪽.
“唐·五代の越州窯や北宋の定窯など,宮中の御用品を製作し,朝貢したと思われる窯はかなり多く,れらも時に官窯の名でよばれるこどがあるが,御用品たけを燒いた官窯とは,やや性格が異なるものある。明·淸時代 景德鎭には御器廠が置かれ, そこで宮中使用の品を燒いたことは, よく知られてゐるとろである。”

長谷部樂爾 著,「磁州窯· 河南天目」,『世界陶磁全集』 12卷,「宋」(東京: 小學館, 1977), 230쪽.
“一般に磁州窯といわるものは,中國北部の民窯で燒かれた,主として民間日用の雜器で,鐵分を含んだ灰色の素地を白化粧し,透明釉をかけて燒き上げた,白い硬い陶器が主體をなしている。さまざまの文樣はこの白化粧を利用して施されることが多く,鐵繪具を用いることも多い。この種のものを中核にしで....”

長谷部樂爾 著,「磁州窯· 河南天目」,『世界陶磁全集』 12卷,「宋」(東京: 小學館, 1977), 233쪽.
“11世紀に入って,磁州窯の作風はさらに多樣になり, また洗練されていったよにみえる。たたし, このばあいも年代の明らかな遺例はほとんどなく主としてその形式の變化によっ相對年代をとらえるしか方法がない。”

長谷部樂爾 著,「磁州窯· 河南天目」,『世界陶磁全集』 12卷,「宋」(東京: 小學館, 1977), 235쪽.
“磁州窯の最盛期が北宋末期.12世紀初頭にあることは,すでに常識になっている。ごれはいうまでもなく,磁州窯とよばれるやきものが世界にその存在を認められたのが, 20世紀初頭の河北省鉅鹿の大發堀を端緖としていることから導かれた見解である。”

11, 藤岡了一

藤岡了一 著,「宋の天目茶碗」,『世界陶磁全集』 12卷,「宋」(東京: 小學館, 1977), 248쪽.
“褐色乃至黑い釉藥の陶磁は,中國ではすでに西周の遺跡から發見されており,もっとも古い釉藥の一であると考えられるが, 眞に美しい黑釉が作られたのは宋代に入ってからであった。そして, 黑色の釉が廣く茶碗に用いられ,たとえば, 定窯において黑定とよぼれる黑い茶碗が産せられるが,なかんずく建盞の名が天下をl風痱するに至ったのは,宋代に新たに興った喫茶法の流行と密接なつながりがある。”

12. 中野 徹

中野 徹 著,「宋代陶磁の文樣」,『世界陶磁全集』 12卷,「宋」(す東京: 小學館, 1977), 297쪽.
“宋代磁器の意匠には,龍鳳, 唐草に類する文樣と倂せて,花鳥,魚藻,風俗といった 繪畵的な 圖樣が多くなる。また, 彫刻, 押印に加えて,筆描による表現法が發達した。この二点は,唐以前の陶瓷意匠に對して, 宋以後のそれを分かって,際立った特質となっている。また,一方は表現內容にかかわり,他は技術上の問題でありながら, 二者は相卽の關係にあった。”

13. 三上次男

三上次男 著,「渤海·遼·金·元の陶磁器生産とその歷史的背景」,『世界陶磁全集』 13卷,「遼·金·元」(東京: 小學館, 1981), 131쪽.
“古代末から中世にかけで,東北アジアと北アジアには渤海·遼·金·元の四つの北方民族の國家の興亡があった。この稿ではこれらの國家の社會や文化の狀態と性質, とくに陶磁器生産に關連した問題について考えてみたい。

三上次男 著,「渤海·遼·金·元の陶磁器生産とその歷史的背景」,『世界陶磁全集』 13卷,「遼·金·元」(東京: 小學館, 1981), 137쪽.
“金代の 社會と 陶磁器生産の 停滯, 金は女眞人の國である。女眞人は渤海國の滅亡後多くの部族に分れてその故地に居住し,農耕·狩獵生活を營んた民族である。十世紀以來 遼の支配下にあったが,十二世紀になると完顔部の阿骨打が諸部族を統一し, 金國を建設した....實質的に女眞人を支配者どする漢人の國家になったのである。”

三上次男 著,「渤海·遼·の陶磁」,『世界陶磁全集』 13卷,「遼·金·元」(東京: 小學館, 1981), 143쪽.
“渤海國は高王元年(698),中國の東北地方の東半から朝鮮半島の北部にかけての地域を領土として成立した高句麗≡靺鞨人の國家であって建國者は大祚榮(高王)である。この國はその後230年近く存續し,大諲譔二十年(926)に契丹の耶律阿保機(太祖)によって滅ばされた。...第二次大戰後吉林省敦化の六頂山で發見された第三王大欽武(文王)の王女貞惠公主の墳墓から墓誌が,また最近は同省の延吉縣でみつかった貞孝公主の墳墓からも墓誌がそれぞれ發見されたが,この二つの墓誌が現在のところ,その國人にらる記錄のすべてである。しかし中國の『舊唐書』『新唐書』『自治通鑑』『冊府元龜』わが國の『續日本記』や『菅家文草』朝鮮の『高麗史』等等には,この國の政府組織や制度,または政治外交の變遷,あるいは社會の實情を傳えた史料がわすかながら存在するから,それによってこの國の狀態は大體は知ることができる。”

三上次男 著,「渤海·遼·の陶磁」,『世界陶磁全集』 13卷,「遼·金·元」(東京: 小學館, 1981), 144쪽.
“渤海時代には,灰白色の無釉土器が領內の各地で燒成されているが,これらは普遍的な日常用器であるからしばらくおき,特色のあるもとしては綠釉陶器· 三彩陶器および黑色鍊磨の節目文土器をあけることがてきる。”

三上次男 著,「遼·の陶磁器の特色」,『世界陶磁全集』 13卷,「遼·金·元」(東京: 小學館, 1981), 147쪽.
“遼の陶磁器については,いくつかの面からその特色をとらえることができる。まず總體的な 特色についていうと,ごの國で生産さた遼陶は,同時代の中國の五代陶磁や北宋陶磁とは,素地はもとより形態や裝飾や釉色の点でも異なっているところが少なくない。これを例示すると次のようである。ます遼磁獨特の器形のものにいで述べよう。遼では, 開國後4半世紀ほ經た十世紀の中期, 獨特な器形の皮囊壺を作り出している。”

14. 長谷部樂爾

長谷部樂爾 著,「金の陶磁器」,『世界陶磁全集』 13卷,「遼·金·元」(東京: 小學館, 1981), 171쪽.
“金代の遺跡から出土した白磁の資料としてます第一に注目さるのは,大定17年(1177)に葬られたことの確かな,北京通縣石宗壁墓出土の白磁器の一群である。この出土品の中には,磁州窯系の靑磁, 灰陶の壺や鉢, 湖州鏡ななも含まれている。

長谷部樂爾 著,「金の陶磁器」,『世界陶磁全集』 13卷,「遼·金·元」(東京: 小學館, 1981), 173쪽.
“金の遺領での靑磁窯は,いうまでもなく陜西省の磁州窯とその系統,いわゆる北方靑磁が中心をなすと考えられる。この場合にも,從來は金·元代のそれを無視し,あるいは過少に評價する傾向が强く,金·元代北方靑磁という觀念は,ほとんど具體性のないものであった。”

15 . 失部良明

失部良明 著,「元の靑磁」,『世界陶磁全集』 13卷,「遼·金·元」(東京: 小學館, 1981), 180쪽.
“北宋中期に越州窯の一支窯として開かれた龍泉窯は,南宋時代に砧靑磁とわが國で呼びならわされている獨特の靑磁な燒成し,かって越州窯の名聲を奪って一躍令名をはせるこどになった。元時代の蔣祈が「陶記」の中で景德鎭窯の白磁が「饒玉(景德鎭が屬した饒州産の白玉の意」と稱讚され,「其視眞定紅瓷龍泉靑秘相克奇矣」と述べている。”

16. 佐藤雅彦

佐藤雅彦 著,「元の白磁と靑花」,『世界陶磁全集』 13卷,「遼·金·元」(東京: 小學館, 1981), 199쪽.
“現在わかっている中國陶磁史の知識の上からいうと,元時代の陶磁の主流を成したのは,磁州窯の白地黑花陶,龍泉窯の靑磁そうしで景德鎭の靑白磁と靑花ということになる。そのうちでも景德鎭の磁器が第一の主役であることは,元代中期以後の陶磁史にこの窯が獨占的な地步を占めたことを思えば當然のことといえよう。”

佐藤雅彦 著,「元の白磁と靑花」,『世界陶磁全集』 13卷,「遼·金·元」(東京: 小學館, 1981), 204쪽.
“憑先銘氏による本書の「靑花磁器の起源に關する諸門題」に紹介されている。강서성 九江出土の靑花塔式蓋甁(揷圖170-171)である。延祐6年(1319)の紀年墓から出たこの甁は憑先銘氏によれば,後の至正樣式に至る典型的な元代靑花とは靑料の質が異なり,やや黑っぱい發色をみせているらしいが,寫眞についでみた恨りでも,形姿や描畵のゆき方はややたとたとしいところはあるものの,明らかにその正系に連らなるものと認められる。”

佐藤雅彦 著,「元の白磁と靑花」,『世界陶磁全集』 13卷,「遼·金·元」(東京: 小學館, 1981), 224쪽.
“これまで元の陶磁に關しては,龍泉窯の靑磁にしろ,靑花にしろ, 大作主義になつたということが,その最大の特色であるかのごとく說かれがちたった,しかし,大作はほとんどが外注に應じたもので, それとは別に中國內地のための, 小形で隱やかなものが傳統的に作られ,それらが明代の陶磁の低流となっていったことを,認識しなおすべさであろう。”

17, 憑先銘

憑先銘 著,「靑花白磁の起源に關する諸問題」,『世界陶磁全集』 13卷,「遼·金·元」(東京: 小學館, 1981), 261쪽
“中國靑花磁器に關する長年の議論や硏究は,みな江西省景德鎭を中心に行なわれてきたが,起源に關する論究もその例に漏れない。筆者は起源に關して二つの点を考究すべきだと考える。一つは,靑花磁器出現の時期,そうしてもう一つは出現の經緯である。はたしてそれは,中國陶磁の發展が必然的にもたらしたものなのか,それとも外國の影響により生まれたものなのか。”

憑先銘 著,「靑花白磁の起源に關する諸問題」,『世界陶磁全集』 13卷,「遼·금·元」(東京: 小學館, 1981), 263쪽.
“靑花磁器誕生の經緯にづいで考えて見よう。從來, 東西の多くの學者は,中國の靑花磁器はペルシアの影響によると考えてきた。原料から製作技法に至るまで,すべてペルシアから傳來されたというこの主張は,中國國內でも一定の影響力を與えた。1973년筆者は中國陶磁本來の發展法則を蹈まえ,中國靑花磁器の誕生は中國固有の傳統にと基づくいう考を提起した。”

18 . 佐久間重男

佐久間重男 著,「明代の陶磁と歷史的背景」,『世界陶磁全集』 14卷,「明」(東京: 小學館, 1976), 139쪽.
“明代の陶磁器を代表するものは景德鎭である。景德鎭は江西省の饒州府浮梁縣にあり, 唐·宋以來,陶磁器の生産地として知られ,元·明·淸にかけては技術においでも生産額いにおいでも,絶對に他の追隨を許さない中國第一の窯業地となり,その製品は國內は勿論, 海外にも廣く輸出され,その名は世界的に知られるようになった。”

佐久間重男 著,「明代の陶磁と歷史的背景」,『世界陶磁全集』 14卷,「明」(東京: 小學館, 1976), 143-144쪽.
“(蘇麻離)靑を原料とする白磁靑花(染付)ならびに鮮紅色の釉裏紅など,技術的にも高度の,また後世高く評價される各種の瓷器を燒くことになった。”

佐久間重男 著,「外國貿易と陶磁器」,『世界陶磁全集』 14卷,「明」(東京: 小學館, 1976), 149-150쪽.
“明代の外國貿易は大別して前期と後期とに分けられ,その前と後とでは政策上,大きな變化があったことが知られる。前期はいうまでもなく,明初からの朝貢貿易が主體となり,中國商人の海外貿易がいっさい禁絶された海禁の時期でり.後期はいわゆる倭寇の活動と密貿易の盛況に伴い,ついに海禁政策が解除され(1567)民間貿易がある程度自由化れた時期である(中略) 朝貢貿易の利益は官の獨占であった.この朝貢貿易と表裏をなすのが海禁政策である. 元末から明初にかけて, 中國沿海地の海上には, 倭寇, 海寇なとの海賊船團が 橫行し, 時折沿海地に上陸して騷擾事件を起こしていた.これらの海賊船團は,單なる海賊團というよりも,むしろ中國商人との間に密貿易を營み,要求がいれられないと武器を取って立つという,武裝商人の集團であり, 一般の外國商船とも容易に區別しにくいものであった.そのため洪武帝は, 朝貢船以外の一般外國商船の來航を拒絶するとともに, 國內の人民に對してはいはゆる下海の禁令を發して,彼らの海上進出をいっさい禁止する政策をとった.この政策は,明初以來, これが恒久化されて約 二世紀の長期にわたり存續された.”

19. 藤岡了一

藤岡了一 著,「明初の磁器」,『世界陶磁全集』 14卷,「明」(東京: 小學館, 1976), 153쪽.
“唐·宋から元へと永い經過のうちに, 獨自に白磁燒成の技術を發展させできた, 江西景德鎭窯は,元末に至ってついに靑花磁器を完成し, また白磁釉裏紅にも成功した。”
岡了一 著,「明初の磁器」,『世界陶磁全集』 14卷,「明」(東京: 小學館, 1976), 154쪽.
“洪武の釉裏紅にはそのおもな描畵と文樣に共通の型がある。題材のほとんどが草花とか,花弄とかの植物で 構成されるのが通例で その種類も限定されてる...廣大な器面を縱にいくつかの區劃に分割しその一つ一つにいわゆる四季花の數數を整然と立てた洪武獨特の意匠である。唐草文では牧丹·菊の唐草が多く,靈芝唐草も少にくない。”

藤岡了一 著,「明初の磁器」,『世界陶磁全集』 14卷,「明」(東京: 小學館, 1976), 159쪽.
“永樂靑花の文樣,永樂には 文樣の題材や 形式も大きく 變化している。ます植物文樣が多くなって, 動物文樣は激減している。唐草文では 寶相華· 牧丹· 蓮花·薔薇·山茶花· 菊· 靈芝·朝顔·㧪子など,いわゆる四季花をいろいろ混せたもの,とくに一つの蔓にそそれ異なった種類の花と葉をつけた形式のものが著しい。その花も葉も元磁に比べるとずっと小さく,しかし寫生風で自由な姿で取まり,蔓の轉回はより輕快に走る。”

藤岡了一 著,「明初の磁器」,『世界陶磁全集』 14卷,「明」(東京: 小學館, 1976), 160쪽.
“元磁の特色あるs字形の怒濤をあらわす波頭(なみがしら)はなくなり,うねりのある波の重なりと白く立ち騷ぐ波頭に變化し, したいに裝飾化してゆく,雲文も尾を長く引いた元磁の如意頭雲。(靈芝雲ともいう)はほとんどなくなり,如意頭を中心に三方から四方へ尾を引いたもの,しかも小形で尾も短くなっている。雲龍を描いてもさらに波濤文や唐草文を配する例が多いのも特色である(圖18 · 揷圖217)また,甁·壺·碗·鉢 類の上下に蓮瓣文を便化した帶文を一周させる意匠は,元以來もつとも多い補助文樣であろう。元磁の力のこもった筆致はここにではしだいになごやかなり,丹念に描かれでいて,蓮辦の先端は隱やかな圓みを帶びたものになっている。”

藤岡了一 著,「明初の磁器」,『世界陶磁全集』 14卷,「明」(東京: 小學館, 1976), 181쪽.
“靑花の官窯銘,官窯では「大明宣德年製」の靑花銘を器の一部に書き入れるのが常例となった。底裏に二重圓圈を描き,その中に優雅な楷書で二行に書き付けるのが原則で,高台裏が露胎の場合とか,あるいは高台裏に書きにくいときは器側面, 口緣部に近い所に橫書きされる。馬上杯などの場合は內底の中心に書いている。このような款銘の形式はその後永く明·淸を通して官窯銘としで踏襲された。”

藤岡了一 著,「明初の磁器」,『世界陶磁全集』 14卷,「明」(東京: 小學館, 1976), 183쪽.
“宣德官窯では靑花の向上とともに釉裏紅の技術も長足の進步を遂けた。元代からの技術上の困難を克服して,ここてはその發色は鮮麗でしかも擬重, ます完璧の域に達し,その精緻な用筆によって濃く鮮やかな紅色の畵面が潔白地に映える意匠は靑花とはまったく異なる濃麗の效果を發揮した。”

20. 長谷部樂爾

長谷部樂爾 著,「成化·弘治·正德の 官窯 磁器」,『世界陶磁全集』 14卷,「明」(東京: 小學館, 1976), 187-178쪽.
“宣德年間(1426-1435)に用いれたコバルト顔料は名高い「蘇泥勃靑,いわゆる蘇麻離靑,西方から輸入された良質のコバルト顔料たったのに,これがいつつのところか絶えてしまったため,成化年間には平等の地に産するものを使ったのことで,このため靑花の色合が宣德に及ぼないものであるどいう。しかし遺品について見ると槪して靑花の色調が淡いものが多いけれとも,なかには宣德の靑花とほとんど區別てきないものもあって, 必すしもすべてが單一の原料をもって描かれだものとは考えられい。”

長谷部樂爾 著,「成化·弘治·正德の 官窯 磁器」,『世界陶磁全集』 14卷,「明」(東京: 小學館, 1976), 189쪽.
“成化官窯の製品として, 靑花にもまして 古來聲價の 高いのはで 五彩である。『 陶說』に「成窯は五彩 をもっとも最となす」とし, 『博物要覽』に「靑花は 成化窯が 宣德窯に 及ぼない。(けれとも)宣德窯の五彩は深厚堆垜であり, 成化窯のそれは色を用いるのに淺深頗る畵意がある」とあるのを引いているのは,明代末期以降の見方を示しているもので,「圖錄」ではこれを敷洐して,「畵彩は前後に軼る畵手高く彩料の精るをな 以てなり」といっている。”

長谷部樂爾 著,「成化·弘治·正德の 官窯 磁器」,『世界陶磁全集』 14卷,「明」(東京: 小學館, 1976), 192쪽.
“弘治の靑花は,宣德以來の蘇泥沒靑(スモルト)の貯藏が成化年代に盡きてしまったため,國産の土靑を使ったので, 色が黑ずんでいるといわれる。しか,官窯の靑花では,槪して靑の色が淡い調子に施されており.一種品のよい圖柄になっている。”

21. 佐藤雅彦

佐藤雅彦 著,「嘉靖·隆慶·萬曆の磁器」,『世界陶磁全集』 14卷,「明」(東京: 小學館, 1976), 213쪽.
“三代を通じて景德鎭磁器の中核をなじたのが靑花であることは,今さらいうまでもない,そして,その靑花の彩料が,正德期までのやや沈んた色合に對し,明るい蓳靑色を呈する。回靑という新しい顔料であることを特色とする。回靑という名は元代から外國産の靑料の汎稱としで用いられており,嘉靖代になって初めてあらわれわけてはない。ただた「景德鎭圖錄」などの文獻に記されているように,「宣德から成化までの期間に輸入,使用された 回靑は,蘇泥勃靑 という名でよばれ, その 後 嘉靖代になって 新たに雲南方面から輸入された回靑は特別の名を持たなかったため,單に回靑とたけよばれたらしい。ともかく嘉靖以後の回靑が原産地の違いで,從來の靑料と呈色を異にしたものであることは確かだ。それが純度の高い酸化コバルトのいわゆるスモルト靑なのかなうか,詳しいことはわからないが,いずれにしろ靑色を黑すませるマンカンや鐵分の少ない,良質のものであったことが察せられる。”

佐藤雅彦 著,「明末の景德鎭」,『世界陶磁全集』 14卷,「明」(東京: 小學館, 1976), 223쪽.
“景德鎭にしてみれば,大きな市場である西方世界のそういう動向には,勿論並並ならぬ關心を拂っていたはずで,西方向けには逸速く別のタイボ,芙蓉手の生産を開始したということであろう,花模樣の ユニットを整然と並べ,その中心にやはり裝飾的な主文を置いた華奢な皿はいかにもヨ-ロッパ好である。”

22. 失部良明

著,「景德鎭民窯の展開」,『世界陶磁全集』 14卷,「明」(東京: 小學館, 1976), 227쪽.
“最上等のものは國王や地方長官の用に供せられ,けっして國外に持ち出すことは許されない。この種のものはじつにすぼらしく,まるで華麗な水晶のように見える。もっとも上等な陶磁器はサシィ(江西か)省で製作されるものである。技藝や工作の職人や工人は指定された街通りに居住し,この地區にはその職業や技術に從事していない者が入りこむことわ許されない。...最上の陶磁器は海外へもち出すことは許されず,違反すれば死刑に處せられる。”

失部良明 著,「景德鎭民窯の 展開」,『世界陶磁全集』 14卷,「明」(東京: 小學館, 1976), 256쪽.
“五彩磁 隆盛, 明前期から中期にかかる15世紀は,これまで列擧した例證がほとんどすべて靑花磁であるとおり,民窯の製品は靑花磁によって本流が築かれていたとみて大過あるまい。ところが16世紀にはいって正德時代ころから編年の好資料として五彩磁器を取り上けることができ,嘉靖年間では靑花磁よりむしろ五彩磁に比重が傾いている。この現象は,とりもなおせず,民窯における五彩磁の隆盛を强く物語るものである。”

失部良明· 長谷部樂爾 共著, 「明代の地方窯」,『世界陶磁全集』 14卷,「明」(東京: 小學館, 1976), 263쪽.
“『皇明實錄』永樂2年(1404)5月甲辰條に禮部尙書李至剛の上奏を載せているが,それによると琉球國山南王使が白金をもって處州に行き,磁器を市易したことが「法にてらして逮問にある」としている。外國人が私貨をもって私的に貿易することも禁じた法令に触れたわけである。”

23. 西田宏子

西田宏子 著, 「明磁の西方輸出」,『世界陶磁全集』 14卷,「明」(東京: 小學館, 1976), 293쪽.
“中國では,明朝になって,第三代永樂帝の時代に東南アジア·イント洋ペルシア灣アフリカ大陸東岸に向かって大規模な海上活動が行なわれた。永樂帝の命令を受けた鄭和の率いる船團による西洋下りといわれた遠征それで,1405-1433年までの28年間に7次にわたる大船團が派遣され,その一部隊は東アフリカから紅海,そしてアラビアのメッカにまで至っている。”

西田宏子 著, 「明磁の西方輸出」,『世界陶磁全集』 14卷,「明」(東京: 小學館, 1976), 294쪽
“15世紀前半までは, 靑磁が主で靑花磁器は少なく,すぐれた質の陶磁器が多い。しかし,く15世紀後半ころを境にして變化を見せ,靑花磁器が主となり 靑磁は少く
なって,質の惡い安價な輸出磁器が多くなると報告されている。”

24, 中野 徹

中野 徹 著, 「明磁の文樣」,『世界陶磁全集』 14卷,「明」(東京: 小學館, 1976), 305쪽
“唐時代まての工藝意匠には, 古代的性格が殘り, 文樣に종교,信仰上の意味があらわされている場合が多い。近世的な意匠は宋代に始まったといってよいたろう。彫漆,刺繡 陶磁等に同時に新しい裝飾意匠が取り入れられている。”

25. 佐久間重男

佐久間重男 著,「淸朝磁器文化の特質とその展開」『世界陶磁全集』 15卷,「淸」(東京: 小學館, 1983), 123쪽.
“時代的背景,淸代の陶磁器を代表するものは,明代に續いて依然として江西省の景德鎭のそれである。景德鎭の窯業生産が明代から淸代にどのように受け繼がれていっかたか,官窯と民窯との生産形態が淸代にとのような變質過程をたどったか,また生産技術の向上と豊富多彩な釉上彩磁の出現など,淸代の著しい發達と繁榮をもたらした原動力となるものが何であったか,これらを理解するためにはその時代的背景をなす淸代の歷史を一應念頭に入れておく必要がある。”

佐久間重男 著, 「淸朝磁器文化の特質とその展開」,『世界陶磁全集』 15卷,「淸」(東京: 小學館, 1983), 125쪽.
“淸代に官窯が置かれたのはいつ頃のことであろうか。明代の諸制度を踏襲した淸朝では,陶磁器にあっても前代の例にならい,內外に命令を馳せた 景德鎭にこれを求めたのは必然的なことと考えれる。その官窯は明代以來, 御器敞もしくは御窯敞と呼ばれ,宮廷 の需要に應じて御用磁器を生産し,上納させる官營工場である。

佐久間重男 著, 「淸朝磁器文化の特質とその展開」,『世界陶磁全集』 15卷,「淸」(東京: 小學館, 1983), 129쪽.
“宮中の 皇帝· 妃嬪らの愛玩鑑賞· 儀禮祭祀に供する器物として作られた。その瑯琺磁器の繪付は 造辦處に服務する宮廷畫家たちによって彩畵され,その純白な白磁胎は,擁正以後には,多く景德鎭で燒成し,宮中に運ばれものであったといわれる。瑯琺彩畵家として,擁正·乾隆期には多くの名をなすものが輩出していた。”

26. 佐藤雅彦

佐藤雅彦 著, 「淸官窯の性格」,『世界陶磁全集』 15卷,「淸」(東京: 小學館, 1983), 133쪽.
“御器廠の整備は勿論, 原料の調達から工人の傭人, 燒窯,そして 製品の輸送に 至るまで,すべての費用が國庫から支出されたのてある。これによって御器廠の經營はきわめて嚴正であると同時に,十分に餘裕ある生産體制が敷かれたといっていい,おそらく中國歷代の官窯のうちでも, もっとも理想的な態樣が確立されたといえよう”

佐藤雅彦 著, 「淸官窯の性格」,『世界陶磁全集』 15卷,「淸」(東京: 小學館, 1983), 137쪽.
”釉裏紅の方は,擁正·乾隆と降っても,ますます精緻な作風を展開されるが,靑花の方は康熙までで進展が止まってしまう。作品としては勿論 擁正·乾隆にも出てくるが。發展的な新たな動きはみられず,逆に明初の永樂や宣德代の靑花の模倣が, 復活が,むしろその志向とみられるからである。

佐藤雅彦 著, 「淸官窯の性格」,『世界陶磁全集』 15卷,「淸」(東京: 小學館, 1983), 138쪽.
“明の嘉靖以後に作られた 五彩は,多くの場合 釉下に 靑花文をもつ。萬曆赤繪のこときである。したがって灰の多い透明釉を使わねばならなかったが, 康熙以後の淸朝官窯て作られた五彩には,靑花をもつ例はかなり少ない。ほとんとの五彩が白色灰透釉を使っているといっていい。”

27. マカレットーメドレ著, 西田宏子 譯

マカレットーメドレ著, 西田宏子 譯 「淸朝の靑花磁器」,『世界陶磁全集』 15卷,「淸」(東京: 小學館, 1983), 153쪽.
“淸時代を通じて, 靑花磁器の燒造は行なわれていたが,明時代前期におけるように, 重要な位置を占める陶磁ではなかった。しかしながら,中國陶磁は明時代に築かた確固たる傳統なしには,淸時代にみられる發展を遂げることはできなかったのにちがいない。當時の人人の關心をひく他の裝飾法が開發され,完成度を高めていったので,靑花磁器はしたいに好まれなくなったようぁるが,少くとも1710年頃までは,國內および海外の市場で,重要な位置を占めていたよである。”

マカレットーメドレ著, 西田宏子 譯 「淸朝の靑花磁器」,『世界陶磁全集』 15卷,「淸」(東京: 小學館, 1983), 155쪽.
“甁の形には, 胴部のへこんものや, 細長い筒狀の頸もつものや,口緣のずく下から胴の大きくふくらんたものなどがあるが。いずれも明時代のものとは異なった姿をしてれいる。また, 胴がふくらんで口緣部を內に抱えこんた姿の壺のクルプがあり,筆筒は中國の陶磁史の上でも初めて作られた器であった。このような器の多くは,平らで無釉の底部をしるが, 壺や甁,筆筒なとには,口緣部にも釉がなく,わずかにクリム色をしたきわめて良質のきめのこまかい素地をみせでいるものがある。このような器形や細部の造りはその簡潔な線によって傳統的な器形や作調から離れ,まったく新しいものを表現しているようで,淸朝樣式の崩芽ともいえる。”

28. 西田宏子

西田宏子 著, 「淸朝の輸出磁器」,『世界陶磁全集』 15卷,「淸」(東京: 小學館, 1983), 231쪽.
“中國の貿易陶磁,中國陶磁の輸出の歷史の中でも,たしかに淸朝の輸出陶磁は特殊な形態をとっていた。中近東諸國を經由して,中國陶磁がョロッパに屆いたのは14世紀末からのことで, 東洋への航路が開かれでからは,その量もしたいに增加していった。明末淸初のいわゆる17世紀の東インド會社の活躍期には大量の靑花磁器が歐洲へ運ばれ,”
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