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도자사 자료, (일본인 학자들의 연구)

작성자 : 관리자
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한국 도자기에 대한 일인 학자들의 연구

우리 도지사는 일제강점기 일인들이 연구를 시작하였다. 그러니 시작부터 왜곡되었을 것이라는 선입견을 가질 수 있다. 그러나 연구의 성과를 살펴보면 그렇지 만도 않다. 연구자들 중에는 학자의 양심으로 연구의 기반을 구축한 그룹과 침략 정부에 어용되어 우리 도자사의 왜곡을 주도한 두 그룹으로 나누어져 있었음을 볼 수가 있다.
조선 도자사에 관한 일본인들의 연구는 달든, 쓰든 우리 도자사의 뿌리가 대었으니 살펴보지 않을 수가 없다. 그때의 연구자들 중에는 이미 우리 문화계에 널리 알려진 ‘야나기무네요시’(柳宗悅)라는 문필가가 있다. 그는 광화문(光化門) 보존의 공로가 인정되어 민족의 이름으로 시상한 바도 있지만 우리 문화에도 깊은 이해가 있었고 도자기에도 남다른 식견으로 식민지 정책과는 관계없이, 조선 공예 전반에 관하여『朝鮮の文化とその藝術』라는 저서를 남긴 바가 있다. 이 책에는 우리 조상들의 창의성과 독창성을 선명하게 기술하고 있다.

당시의 연구자로 또 한사람 ‘고다쇼고’(小田省吾)는 『朝鮮王朝實錄』을 비롯하여 많은 사서를 섭렵(涉獵)하고 도자사 연구에 참고가 될 만한 사료를 발취하여『朝鮮陶磁史文獻考』를 저술 한 바가 있다. 이 책은 70년이 지난 지금도 도자사 연구에는 유용한 참고자료이다. 뿐만이 아니라 그는 새로 시작하는 도자사의 연구방법론을 제시하여 길라잡이의 역할도 있지 않았다.
이들의 진실한 연구와는 달리 침략정부에 어용된 무리들은 처음부터 우리 도자사의 왜곡을 획책하였다. 그러나 완벽에 가까운 우리의 사서를 준용하고는 역사를 왜곡할 수 가 없었던지 역사 문헌을 무시하고 유품만으로 도자사 조작을 시도하였다

해방되고 일인들의 자리를 물려받은 우리 연구자 들은 일인들이 역사왜곡을 위하여 문헌을 무시하던 연구 방식을 이어받아 오늘에 이르렀다. 문헌을 무시한 연구는 역사 조작을 위하여 일제가 뿌려놓은 씨앗이었다.
그들이 남긴 주장에는 조선이라는 나라라는 이 지구상에서 영원히 사라지고 없어질 것을 전제로 쓴 글이니 어느 누구의 비판도 받지 않을 것이라고 생각한 듯 근거도 없는 주장으로 역사를 왜곡하고 있다. 그러나 우리의 고려청자는 세계적 명품이고『朝鮮王朝實錄』과『承政院日記』등은 세계의 기록문화유산으로 등재되어 우리는 문화민족임을 과시할 수 있게 되었다. 그러나 도자사를 연구하는 일부 연구자는『朝鮮王朝實錄』에 기록된 왕명이 지켜지지 않았다는 주장으로 세계문화유산으로 지정된 『朝鮮王朝實錄』에 흠집을 내고 있다.
이 자료에 왕명으로 반포된 금령이 지켜지지 않았다는 주장을 처음 발설한 사람은 일본인 小山萬吉郞이고 1934년이다. 이어서 浜口良光가 1966년에 실록에 금령이 있기는 하나 령이 령으로 끝난 것은 아닐는지 라고 하여 애매하게 문헌 무시의 씨를 뿌렸다. 외에도 거론자는 많으나 모두가 선창을 따라 복창한 것 이니 생략하였다. 국내 학자로는 정량모가 1980년에 일본에서 일본 말로 책을 발간하면서 사료를 조작하여 임금을 지방 서민과 동등한 위치로까지 비하시켰다. (이에 대한 자료는 국내 연구자의 자료에서 밝히기로 한다. )

군주국가에서 왕명이 지켜지지 않았다는 것은 곧 반역이거나 무법천지를 의미하는 것이다. 침략정부에 어용된 연구자들이 조선 임금의 권능을 비하한 것은 임금이 무능하여 백성들이 고통을 받으니 일본의 식민통치가 불가피 하다고 침략의 당위성을 주장하기 위한 수단으로 이해할 수 있다. 그래도 그들은 명문으로 기록된 사료를 정면으로 부정하기 보다는 애매한 표현으로 문헌 부정의 씨를 뿌렸다. 그러나 임금을 지방 서민의 위치까지 끌어 내린 것은 우리 연구자들의 주장이다.
여기에 제시된 자료들은 일제 강점기 즉 연구 초창기의 자료들이다. 해방을 맞이한 지도 벌써 60여년이 지났지만 우리는 사료를 무시하였으니 당시의 사료 외에 개발된 사료는 별로 없다. 뿐만이 아니라 도자사는 사료를 무시한 연구로 서민과 임금을 동격으로 주장하였으니 사료를 중시하는 일반사와는 괴리된 연구를 하고 있다.
이 자료에는 우리 도자사의 기초를 마련한 자료와 도자사 왜곡을 주도한 연구자들의 주장들도 함께 제시하였다. 이 자료는 필자가 정리해둔 자료이니 충분치 못한 점은 보완하시기 바랍니다.

1. 柳宗悅

柳宗悅 選集, 第4卷,『朝鮮とその藝術』(東京,(株)春秋社, 1972), 218쪽.
“東洋は唐宋の文化に於て結合せられた東洋であつた。(中略)その時 政治は國境を分けても,文化にはかかるものを認めゐ事が出來ぬ。表現せられた美に於て,又追求せられた眞理に於て,分てゆく二つの方向はなかつた。時代は佛敎の時代であつた。民族の名目は異なつても皆國を擧げて一佛陀への禮讚のために共通な學藝に勵んだ。凡では宗敎の王國に於けゐ兄弟であり姉妹.であった。吾吾はこの時代を佛敎に於て統一せられた東洋の一時期と劃する事が出來る。”

柳宗悅 選集, 第4卷,『朝鮮とその藝術』(東京,(株)春秋社, 1972), 223쪽
“高麗の沒落は佛敎の沒落であった。新しい王國に於て一切に新しい出發を與へるために儒敎は厚く要求せれた。儒敎は地上の敎へである。從つて地に安泰な基礎を得ないものは李朝の美となる事は出來ぬ。窯業にかかる美を含ませようとするなら。第一に 地に着く安泰な形を求めねばにらぬ。李朝に於て受けた陶磁器の第一の變化は形であったと私は思ふ。

柳宗悅 選集, 第4卷,『朝鮮とその藝術』(東京,(株)春秋社, 1972), 225쪽
“今まで屢屢(「三手島」 <粉靑沙器> )は高麗朝のものであると考へられた。然しその大部分は恐らく李朝初期のものであろう”

柳宗悅 選集, 第4卷,『朝鮮とその藝術』(東京,(株)春秋社, 1972), 227쪽.
“大陸は半島とは異なるのである,異なるにつれて自然は變り風物は違ってくる。さうしで歷史が違ひ人情が變ってくる,藝術が心の直寫であるから,朝鮮に於てそのままに追隨し得る支那の作風はいのである。私達は最も多く李朝 の作に 獨立した美を見出す事が出來る”

柳宗悅 選集, 第4卷,『朝鮮とその藝術』(東京,(株)春秋社, 1972), 229쪽.
“次には釉藥である, 之も獨步である, 同じ白さに於ても,あの冴える樣な銳い純白を示す明の磁器と如何に異なってゐるであろう,それは常に淡い水色を示すか,若くは粉白につつまれ,又は沈みがちな灰白を呈しでゐる。”

柳宗悅 選集, 第4卷,『朝鮮とその藝術』(東京,(株)春秋社, 1972), 230쪽.
“次に誰にも氣づかれるは模樣である。そのうち或ものが支那からの轉化であるのは言ふ俟たなぃ。然し朝鮮は自らの描ぎ方によつてそれゑ自己の模樣に變へた.....民族は彼の四圍にある花や鳥や,又は,特色ある自然ゑ屢屢題材に選んだ。”

柳宗悅 選集, 第4卷,『朝鮮とその藝術』(東京,(株)春秋社, 1972), 241쪽.
“李朝のものにも三島手(粉靑沙器)と堅手とが分れてゐる, 三島手は高麗のつながりてある,靑磁の技術が衰へて三島手になったのだと說明する人が多い。さう說くと條道が立つ,だが美まて衰へたといふなら間違ってゐる。新たに加はった白繪刷毛目の手法は,今までにない味を産んだ。大まかな,ゆうったりした, 奔放な味は三島手に來なければならぬ,高麗にはない澁さがある。

柳宗悅 選集, 第4卷,『朝鮮とその藝術』(東京,(株)春秋社, 1972), 242쪽.
“高麗に比べては如何に男性的であるか。時代が選んた儒敎の風格がこででこ一番はつぎりする,あれほと曲線ゑ愛した民族が,こでこ端嚴な直線の美に觸れる,形は大地の上に安定してくる,文樣でも形態でも確かさが增してゐる。だが支那の樣に力で押しては來なぃ。

柳宗悅 選集, 第4卷,『朝鮮とその藝術』(東京,(株)春秋社, 1972), 244-245쪽.
“朝鮮のものも官窯と民窯とに分れる。槪して繪附のものは上等品であって,法令によって民衆の使用を禁じてある。一つには回靑の如きものが當時得難かった器物である。一般の庶民は白沙器を用ゐゐる事ゑ强要された。さもなくば鐵釉の器物である。尤も三島手は官民共に混ってある樣である。 

2. 小田省吾

小田省吾 著, 『朝鮮陶磁史文獻考』(東京: 學藝書院,1936), 3쪽
“朝鮮陶磁に關する若干の文獻....私は常に此の種の硏究は, 技術と, 文獻と, 現地の 調査とが相俟たねばならぬと信するのである。”
국역(나는 항상 이런 <도지 사> 연구는 기술과 문헌과 현지 조사가 일치하지 않으면 안 된다고 믿고 있다. <이와 같이 조선의 도지 사 연구를 시작하면서 연구방법을 제시하였다.>

小田省吾 著, 『朝鮮陶磁史文獻考』(東京: 學藝書院,1936), 21쪽.
“李朝燒.....世宗朝御器專用白磁 至世祖朝雜用彩磁 云云とる。之に依ると 李朝第四代世宗の頃 宮中の器用は專ら白磁を用ひ, 第七代世祖の頃から彩磁を交へ用ふるに至た事が判る.”

小田省吾 著, 『朝鮮陶磁史文獻考』(東京: 學藝書院,1936), 22-24쪽.
“世宗の時は李朝太祖の建國から僅かに30年ゑ出でゐるのであるから(中略)成俔が「專用白磁」と書く䒷はなぃのであろう。然し此の時代に於て白磁のみが用ひられたとは思はれゐ。宮中の御器として專ら白磁が用ひられたづあるからふが。...さて當時此等の磁器は 何れて製造されたかとぃふに,廣州(京畿道)の品が最も精巧で, 次に高靈(慶尙道)之に次ぎ尙其の他でも燔出せられたのである。之は慵齋叢話に左の如く出て居る. “人之所用, 陶器最緊, 今麻浦露梁等處, 皆以陶埴爲業, 此皆瓦器缸瓮之類, 至如磁器, 須用白土, 精緻燔造, 然後可中於用, 外方各道, 多有造之者, 惟高靈所造最精, 然不若廣州之尤爲精也, 每歲遣司甕院官, 分左右邊, 各率書吏, 從春至秋, 監造而輸納于御府, 錄其功勞, 而等第之, 優者賜物, 世宗朝御器, 專用白磁, 至 世祖朝, 雜用彩磁, 求回回靑於中國, 畵樽罍盃觴, 與中國無異, 然回靑罕貴, 求中國亦未多得, 朝廷議曰, 中國雖窮村茅店, 咸用畵器, 豈皆回靑所畵, 應有他物可畵者, 訪於中國, 則皆曰此土靑也, 然所謂土靑者, 亦未求得, 由是我國畵磁器尠少。”之に依ると,每歲京城の司饔院から官吏を派遣し,彼等を二班に別れで部下の書吏を率る,春より秋に至るまて諸道の磁器所に至って禁中所要の磁器を監造して, 之を御府に輸納した事も判かる。政府は其の官吏の優等者には物を賜うで之を獎勵した事も判かる。現在京城の近き麻浦及び露梁津に於ては鍊瓦,土管等の製造が盛であるが,李朝初期から此の地方は瓦器の製造に從事するものの多かったことも,亦上の記事に依って知る事が出來る。

小田省吾 著, 『朝鮮陶磁史文獻考』(東京: 學藝書院,1936), 25쪽.
“李朝初期の陶磁器製作所と其の文獻。高麗時代の磁器製作所につぃては何等の文獻なく,實地によつて漸く三個所を發見するを得 たことは,旣に述べた如くである。然るに李朝初期の陶磁器製造所 につぃては屈强な資料が存在して居るのてある。それは李朝實錄 の中, 世宗實錄に附隨する 地理志 の各府牧郡縣の條に,各其の地方 に於ける磁器所·陶器所の位置が記さらてあるのみならず,其の製品 の品等まで註記されあるのである。試みにその窯場を擧けて見よう。”

小田省吾 著, 『朝鮮陶磁史文獻考』(東京: 學藝書院,1936), 56쪽.
“『世宗實錄地理志』の記事についで一言したいことは,同書に揭けである磁器所は,高麗時代の陶窯とは然關係のないことである。례せば往時高麗燒の最も重要なる製産地と思はるる全羅南道康津郡の如き,其の他 同時の首都開城の如き,何れも一の磁器所の記載もないのである”。

小田省吾 著, 『朝鮮陶磁史文獻考』(東京: 學藝書院,1936), 75쪽.
“靑華磁器の自國製造...李朝の初から5·6十年を經過した第7代世祖王の頃になると,靑華磁器の原料なる回回靑, 卽ち吳須をは支那から輸入して自國に於て製造してゐる。之は『慵齋叢話』の左の記事が明かである。.世宗朝御器專用白磁 至世祖朝雜用彩磁 。求回回靑於 中國畵樽罍盃觴與中國無異(後略)”

小田省吾 著, 『朝鮮陶磁史文獻考』(東京: 學藝書院,1936), 77-79쪽.
“回回靑の發見...回回靑を輸入し靑華磁器の自國生産を始めると, 其の原料たる回回靑を自國にで發見せんと努力するに至るは自然の勢で,世祖實錄に左の記事が見えて居る....間有眞實者(後略)

小田省吾 著, 『朝鮮陶磁史文獻考』(東京: 學藝書院,1936), 81쪽.
“回回靑發見 の獎勵....又其の原料を採進した人民に對しては之が成績の如何により,或は官職を授“けて特に位階を高くして之を敍用し...其の後の文獻が見當らないので確めることが出來ぬが, 當時生存した成俔の『慵齋叢話』に回回靑中國輸入のことのみを記して,その自國發見に言及せぬ處を以て見れぱ,大なる發見はな大なる發見 はなかったものと思はれる。

3. 野守 健1

野守 健 著, 「序」,『高麗陶磁の 硏究』(東京 :圖書刊行會, 1972), 1쪽.
“高麗陶磁に關する硏究は,現在のところ未た充分に行はれてゐないばかりでなく,陶窯祉の學術的 調査も亦殆ど行はれてゐない。其の上, 從來發見さられでゐる幾萬の遺品は, 何れも無知なる人びとの手により竊かに高麗時代の古冢か盜掘されたもので,正確な年代はしることが出來ない。また學術的調査を經たものといっても一,二に過ぜす,それに高麗陶磁に關する文獻も僅少で,嚴密に云へぼ今日までの硏究の範圍內だと,靑磁の起源盛衰等を糾明することは, 遺憾ながら不可能の狀態である。”

野守 健 著, 「總論」,『高麗陶磁の 硏究』(東京 :圖書刊行會, 1972), 1쪽.
“高麗時代に於ける總の工藝品は, 其の他の美術と軌を同じくで發達したものであるが,其の中最も特色を現わして世界的に著名なるものは陶磁器である。”

野守 健 著, 「靑磁」,『高麗陶磁の 硏究』(東京 :圖書刊行會, 1972), 9쪽.
“胎土に鐵分を含み,釉藥の中にも少量の鐵分が含まれ,燒成の際, 還元焰にって靑綠色或は之れに類する色を呈たものを稱する。倂して「靑磁」を「靑瓷」とも書くが,磁と瓷とは同一で, 支那に於て古くは瓷と書れた。”

野守 健 著, 「白磁」,『高麗陶磁の 硏究』(東京 :圖書刊行會, 1972), 41쪽.
“從來發見されてゐる白磁の中で確實に高麗に於て燒成されたものと見做されるものは極めて稀であるが,李王家美術館に數點,朝鮮總督府博物館に數點,平壤府立博物館に一點,保存され, 又京城· 內藤定一郞· 東京·小池厚之助 兩氏も一點づつ所藏されてゐる。此等の遺品と私が 全羅北道扶安郡保安面柳川里の陶窯址に於いで蒐集した確實な資料をもって考察すると, 靑磁及 靑磁象嵌 最盛期に屬 すべきものと 麗末に屬すべきものとがある。“

野守 健 著, 「白磁」,『高麗陶磁の 硏究』(東京 :圖書刊行會, 1972), 42-43쪽.
“京畿道開豊郡嶺北面月古里 宮女洞 古墳から承安3年(高麗第20代 神宗元年 西紀 1197년)在銘 宋淸子墓誌附石棺に伴出せる遺品の中の一つである。此の水甁は高さ 9寸 二分五厘, 胎土は白色, 堅硬, 稍粗笨で中に僅かはではあるが 微細な黑點が存在し, 釉面粗にて帶靑灰白色を呈してゐる。釉藥竝に胎土は保安面柳川里12號陶窯址出土のものより洗練さゐないが 彼の先驅をなすものと 想像される。”

野守 健 著, 「白磁」,『高麗陶磁の 硏究』(東京 :圖書刊行會, 1972), 46-49쪽.
“洪武 24年 銘の 存在するものがある。に1942년 10월 6일 江原道産業課末煇里出張所に於いて,金剛山放火線開鑿工事中, 淮楊郡長楊面長淵里なる金剛山月出峰に於에いて偶然石函中 から銀製鍍金舍利塔· 同舍利用龕 銀製耳搔 ,靑銅盌 等と共に白磁盌四個 白磁香爐一個 等が發見され, 而も 白磁盌に左の文字が陰刻されたものがあった。白磁盌の外面に施された刻字 “大明洪武 二十四年辛未 四月日立願 回願砂合 造幽谷 自釋迦如來 入滅經二千餘年 大明洪武 隱月菴與 ⎕松軒侍中 ⎕余万人 同發哲願 供藏金剛山 直侍彌勒世不建三會時 重開膽禮佛此願堅固佛祖證明 ”
白磁盌の內面に 施された刻字,
“自釋尊入滅經二千四百 余年大明洪武 二十四辛未五月日月菴⎕⎕侍中 李成桂万人同發哲願 ⎕ 藏金剛山侍中 彌勒出世奉以侍人 助揚眞化同成佛徒此願堅固 佛祖訂明 辛未五月日誌 同發願野納月菴 同願施主門下侍中李成桂 同願三韓國大夫人康氏 同願樂浪郡夫人金氏⎕ 同願江陽群夫人李氏妙淸 同願興海郡夫人裴氏 同發願余多⎕不祿侍彌勒三會⎕ 膽禮同成正⎕ 崑盧峯舍利安遊記”
又, 其の器底の高台の 周圍に施された刻字
“辛未四月日 防山沙器匠 沈意 同發願比丘 信寬 “

野守 健 著, 「白磁」,『高麗陶磁の 硏究』(東京 :圖書刊行會, 1972), 49쪽.
<高麗 白磁의 年代 推定 資料>
“洪武二十四年は高麗恭愍王の末年で, 朝鮮太祖の建國の前年に當り朝鮮太祖が所願を
以て之を納めたこどが分る。上に述べた樣に靑磁及 靑磁象嵌の最盛期に燒成されたものと, 麗末に屬するもとが明かになったが, 其の中間に屬するものに至っては未だ年代を推定し得る遺品が發見されで居ないので 現在の소유감なきら詳かでない。...高麗圖經に, 白磁に就て靑磁象嵌と동じく一言も觸れてゐない故, 其の當時には未だ工夫されてゐなかったと想像される。まだ旣に述べた 第十七代 仁宗(1122-1146)の長陵, 第十八代 毅宗朝(1146-1170)に 營造された 文公墳墓或は第十九代明宗(1170-1197)の 智陵らがら高麗の燒成と認むべき白磁器が一點も發見されでなく, 唯, 文公墳墓から支那燒成の白磁器三點が出土してゐるのみである。”

野守 健 著, 「白磁」,『高麗陶磁 の 硏究』(東京 圖書刊行會 1972), 50쪽.
“全羅北道保安郡柳川里 第12陶瓷窯址から辰砂を 塗抹した破片が白磁·白磁象嵌竝に靑磁最盛期のものと 同時に同一場所から出土してをり尙ほ 李王家美術館所藏品の中にも白磁象嵌に辰砂を施したものがある。...靑磁及 靑磁象嵌は明宗の智陵から發見されたものに類似してゐるから, 先づ以後に遠くない時期に燒成されたことが窺知される。”

野守 健 著, 「鐵彩手」,『高麗陶磁 の 硏究』(東京: 圖書刊行會.1972), 50쪽.
“器物の表面に鐵砂釉でなく鐵繪具を塗抹し,其は上に靑磁釉を施し燒成したもので燒成後は帶綠黑色或は黑色となり俗に高麗天目又は黑釉と稱へられでゐた。然しながら詳細に觀察すれぼ, 高麗天目や黑釉ではなく寧ろ靑磁の一種とも見做すべきもので,”

野守 健 著, 「黑釉」,『高麗陶磁 の 硏究』(東京: 圖書刊行會.1972), 58쪽.
“器物に黑釉をr施し燒成したもので,二種類に 分つことが出來る。其の一は燒成後の
釉は僅かに綠を帶びた黑色を呈する。器物には盌·釉壺· 甁臺等の種類があり...其の二は燒成後の釉は光澤全くなく鈍な灰黑色を呈してる。器物の種類には水甁·甁·水注·盌·等がある”

野守 健 著, 「辰砂」,『高麗陶磁 の 硏究』(東京: 圖書刊行會.1972), 58쪽.
“胎土は 銅綠で塗抹し, 或は文樣を描き或は文樣の或る部分に點綴し.其の上に 靑磁柚 を施し燒成したものを指すのである。其の釉色は鮮紅なるを最上とするが,焰の關係によって褐色ともなり綠色ともなってゐる。器物の種類には甁· 水甁· 盌·盞· 盒子· 植木鉢等があり,盒子には內面を靑磁とし外面を辰砂としたものもある。”

野守 健 著, 「畵金磁器」,『高麗陶磁 の 硏究』(東京: 圖書刊行會.1972), 60-61
쪽.
“靑磁象嵌の文樣の上に金を以て輪郭を施し,更に間地にも文樣の一部を金描したものを云ふ。金光燦然たるもので, 其の技巧警くべきものである。「格古要論」に 金花定碗用木蒜汁 調金描畵 然後再入窯燒 永復不脫とあり,また李王家美術館所藏品は中に,定窯燒成は白磁蝶に金を以て文字を書いたものの存在するところからて高麗に於ても恐らく定窯の技法を傳へたものであろう。”

野守 健 著, 「陶磁器 銘」,『高麗陶磁 の 硏究』(東京: 圖書刊行會.1972), 87쪽.
“高麗時代に燒成された陶磁器の中は....淳化四年癸巳太廟第一室亨器匠쵤崔吉會造,淳化四年は高麗第六代成宗十二に年當ってゐる。『高麗史』卷三 成宗 八年 四月の條によると「乙丑始營太廟 癸酉王詣 太廟率百官輸材」と見える。”

4. 奧平武彦

奧平武彦『李朝』『陶器講座』「李朝陶磁史 時代區劃」卷 20 (東京: 雄山閣, 1937), 17쪽.
“ 白磁器の燒成ほ高麗末に遡るかも知れぬが, 自分はこれお 以て李朝前期 の出足点としさたいと考”へる.そして白磁器が完成した時期として(中略)御用の器皿お燔造されたるも,少くも世宗の在位の期間を下るものでなかつと思はれる。

奧平武彦『李朝』『陶器講座』「李朝陶磁史 時代區劃」卷 20 (東京: 雄山閣,1937), 21쪽.
“「形狀, 釉藥, 文樣いづれも, 明の 靑畵白磁と 區別することか 困難で“『慵齋叢話』に『與中國無異』の言に 當れるを 思はしむ。本朝のこの時代 を明朝文化接觸時代の名を冠し得るも一つの根據は,實にここに見出されるのである。しかし, 手法は明代の 靑華白磁に受くるも,李朝の染付はやがて 獨自の風格を現はし, (後略)”

奧平武彦 著,『李朝』,『陶器講座』,「李朝陶磁史 時代區劃」卷 20 (東京: 雄山閣, 1937), 21쪽.
“「朝鮮に於ける 白磁燔造の年代は明確でなく 或は麗末にさかのぼるかも知れぬが 李朝の初期·世宗の 時代には 出來でゐたことは 疑ひないので 白磁器の完成を以て 李朝陶磁史の 出足點となしていいと考へる」”

奧平武彦,「李朝」,『陶磁講座 第20卷』(東京: 雄山閣, 1937), 66쪽
“官廳の使用する陶磁器についでは「內資, 內贍, 禮賓寺. 所用の如きは則 ち舊例に依り靑紅阿里を用ひ畵く」とあり 畵磁器であり, その畵料は 靑紅阿里であるといふ。(中略) 士大夫は常の白磁を用ふといふは.堅手白磁と今呼んでゐる器皿ん指したのあらう.それは必ずしも純白色を呈せず.靑味或は灰色を帶びた半磁器である.刷毛目の如きをも或は加へられてゐたかも知れぬ.”

5. 笠井周一郞,

笠井周一郞,『李朝染付』(東京: 寶雲舍, 1942), 25쪽
“支那 の染付との關係, 李朝の 美術工藝といふものを, 史的に 觀察して 見ると,それはいづれの場合でも, 發達史ではなく, 寧ろ退步の過程であるといふ感をもたせられる。もともと明の正朔を奉じてゐた國柄だから,その藝文は悉く,宗主國たる明の追隨であつた。たからどの一つの藝術でも,その發達課程の大半は, みな生れ故鄕の支那で過ごし, 技の發達が絶頂に達して 絢爛の華と笑いたとぎ, はじめてそのまま朝鮮に移し植をられてゐるのてある。”

笠井周一郞,『李朝染付』(東京: 寶雲舍, 1942), 108~109쪽
“李朝の染付は,その最初には宣德の染付に憧憬してゐたのにもかかはらず, 實際に,その技を廣州の官窯に移し入れて,染付を燔き始めたのは,世祖の朝で,そのときは旣に宣德を降ること20年餘, 景泰末から, 天順, 成化にかかてゐたので,明から取り寄せた顔料は,その試作時代の倣造品を除けば, 旣に,宣德の蘇泥勃靑ではなく…成化から正德, 嘉靖, 萬曆の回回靑が多く用ひられたというふうに想像されるのである.”

笠井周一郞,『李朝染付』(東京: 寶雲舍, 1942), 110쪽
“「間間眞實なるものあり」などと,かなり有望視された康津の回回靑も,結局は空騷ぎに終つてしまったらしく,順天府の沙土のことについても,果してどうなっかことやら,この文獻の以後, 李末にいたるまで,回回靑 自國發見のことについては,何の音沙汰にさへ接せす,相變らず,永くつれを支那に求め,その入手に苦心してゐたことは事實であつた.”

笠井周一郞,『李朝染付』(東京: 寶雲舍, 1942), 126쪽
“染付が一般民庶の用にも供せられるやうになつた分院里の中頃でも,宮中 の御器と,一般民庶用との二つ系統の製品を比べて見ると,その畵格に,甚だしい隔りを感ずる。これなどはおそらく, 前者を宮中畵院が描ぎ,後者をいはゅる 畵靑匠の筆によらしめたものでりうと考へられる。

笠井周一郞 著,『李朝染付』「廣州官窯」道馬里窯 (東京:.寶雲社刊,1942) 156-157쪽.
“「中國と 異なるなしというものに 相當する 明風の 破片を包含しでいるからで ある」(中略染付では明の陶技を取り入れたばかりのもの, いわゆる 模倣期の 古染と それが 旣に 朝鮮の 個性に 同化しで 李朝染付としで 全く完成しだ 頃の 破片まで, 殆ど李朝期に於けるやものの大部分の種類を網羅してゐるといっても差支 ないと思 ふ。”

6. 久志卓眞

久志卓眞.『朝鮮 陶磁』(東京: 雄山閣, 1974), 380쪽
.“吳須は 宣德吳須 でぁつて 蘇勃泥靑 でぁ゚り,西 アジアから中國へ輸入したものをさらに 朝鮮に輸入したものであって, すこぶる良質のものである,せこぶる良質のものである。吳須の色だけでは景德鎭のものとも朝鮮のものとも全く判定しかねるものである。”

久志卓眞.『朝鮮 陶磁』(東京: 雄山閣, 1974), 385쪽
“中國でも成化の頃より蘇勃泥靑と異なる種類の土靑というべきものを使用するが, 蘇勃泥靑も相當使用している。中國の文獻では成化で蘇勃泥靑は盡きたといわれるが,實物を檢討する場合そうとは受け取.れない。”

7. 內山省三

內山省三 著,『朝鮮陶磁鑑賞』(東京:學藝書院, 1936), 6쪽.
“世界各國の陶磁器を通じて,高麗朝陶器ほど,靜淑の心に富んだ陶器はぁるまい。其の靜淑さは,私をして高麗陶器を見る度にいつも「無」に考へ到らしめる。”

8. 淺川伯敎

淺川伯敎 著, 『李朝』(東京:平凡社, 1965). 5쪽.
“舊總督府博物館でも,また發表されていないが,この窯址を發掘採集した澤山の破片を見た。道馬里のものは,牛山里と比較すると吳須が
濁っている。牛山里は內殿用で(牛山里は內陶匠の近くにあり,內陶匠は內殿の陶匠の意味かもしれない)道馬里は士大夫用たったもしれない。”

淺川伯敎 著, 『李朝』(東京:平凡社, 1965). 7쪽.
“『實錄』には「靑紅阿里を用う」といっているが,これは士大夫,王后,王子等の器に用いる顔料で,染付が赤味をおびて色が淡くなり,撫子,りんとうのこときものは,時に紫に見えることがある”

淺川伯敎 著, 『李朝』(東京:平凡社, 1965). 14쪽.
“釉に透明度はないが玉のような强い光をもっている。李朝官窯廣州郡退村面內の陶匠のものと思う。白磁は朝鮮の人の最も好むところで,世祖の時までは,國王は主に銀器を用いていたが,奢侈であるといってこれを白磁にかえた。その時,大臣は王の謙德をたたえ最上の 白磁は庶民の使用を禁止じた。これが以後五百年,法律となった。”


9. 西田宏子`秋山忠吉`佐藤晴雄

西田宏子⋅秋山忠右⋅佐藤晴雄 共著,『韓國やきもの案內』(東京: 平凡社, 1980), 94쪽
“李朝時代に,釉下にコバルト靑料で文樣を描いだ染付は,世祖(1456~66)の初めころ,中國から輸入した靑料を用いて燒造したのに始まるという.”

西田宏子, 秋山忠吉, 佐藤晴雄 共著,『韓國やきもの案內』(東京: 平凡社, 1980), 84쪽.
“1944年のことであった。餘談ながら付け加へると,日本の支配下にあって朝鮮の人びとは博物館で働くことがてきなかったという,唯一の例外は開城博物館で,ここでは館長の高裕氏lの下に若い朝鮮人硏究者が集まっていた。獨立して,すべてが彼らの手に歸したとき,舊總督府博物館の樣子はまったくわからず,收集された陶片なともそのままの狀態で殘こされでおり何か少しわかる人は,鍵を預かっていた小使いの老人たた一人であったいう,
そうしで.それが,今日の偉容をみさる,中央博物館の基礎となったのてある。獨立後しばらくしで起こった朝鮮戰爭からようやく復興したときに,偶然手にした野守 健氏の 著書を見て,こんな硏究がされでいたのか,と心底びっくりしました,それからは,暇をみつけては本をたよりに窯址を深し步きましたよ,という話は野守氏の硏究とその情熱がまったく消えることなく한국の硏究者に受け繼かれたということを示しているといえよう。”

西田宏子, 秋山忠吉, 佐藤晴雄 共著,『韓國やきもの案內』(東京: 平凡社, 1980), 103쪽.
“粉靑沙器は 壬辰倭亂の後に遂に復興されることなく,白磁だけが17世紀中 ごろから盛に燒成されるようになった。これを壬亂による陶工の減少ということで片付けてしまえるたろうか,という疑問が殘る。陶工たちは,需要に應じた生産を行っていたことを忘れてはならない。”

10. 山田萬吉郞

山田萬吉郞編 「李朝染付노 民間使用니 就데」陶磁 第六卷 第 四號 (東京: 東洋陶磁硏究所, 1934), 18쪽.
“一般の使用を禁じ、白磁を貢物とするごどを中止する。白土の盜用を禁じ、所在は 報告せさる(意譯)」と,ごれによって見ると白磁土に乏しく,燒成量も少なかったらしい。更に「(前略) 王者と同じ器お一般が使用するのはいけないという點もあったと思う、しかし令がどれだけ守られたか、令だけに 終ったのではないだろか ”

山田萬吉郞,『三島刷毛目』(서울: 京仁文化社, 1976), 27쪽.
“靑磁系統,刷毛目系統(粉靑沙器)...右の如く二系統に分れその窯跡を調査じて見ても靑磁系統の窯は靑磁系統のもののみにて全然 刷毛目を含まず,刷毛目系統の窯は刷毛目はみを燒いて靑磁系統を混へざるのが普通である。”

山田萬吉郞,『三島刷毛目』(서울: 京仁文化社, 1976), 135쪽.
“渡り易い海に浮んで隨分朝鮮にも來たことであらう。鷄龍山や武安の開窯が此の時代ではなかったあらうか。もしそれより早く傳つてゐたものなら此の時變によって半島の窯業は更に盛大になったであらう。”

山田萬吉郞,『三島刷毛目』(서울: 京仁文化社, 1976), 153쪽.
“要するに武安地方,最も化粧用白土の勘い地方であった。若しも白土の豊富な所であったならとても刷毛目等は起らなかったであらう。”

11. 浜口良光

浜口良光 著,『朝鮮の 工藝』 (東京: (株)美術出版社, 1966), 8쪽.
“工藝は國によってその性質が甚だしく違う。個性をもっいるからである。朝鮮物の特質をあけると,槪して「綱健」である。...線は銳く,形は强い。作品としては石工品によく現われ,木工その他のものにもよく現われている。剛健な一面, 細部には神經が行屈いていない。どこか未完成なところ,無頓着なところがある。”

浜口良光 著,『朝鮮の 工藝』 (東京: (株)美術出版社, 1966), 46쪽.
“文宗の時に作られた「東國名産紀錄」に「安平大君江華島に於て鮮紅沙器を作らしむ」という記事が出ている。鮮紅沙器は紅色繪具を施した磁器の事であるから,これは辰砂記事が李朝の文獻に出てくる初めと言える。安平大君は世宗の第三子で書畵をよくした人である。辰砂は高麗靑磁に部分的に施されているから,これが再興を試みたものであろう。”

浜口良光 著,『朝鮮の 工藝』 (東京: (株)美術出版社, 1966), 47쪽.
“一般磁器の使用を禁じ、白磁を貢物とするごどを中止する。白土の盜用を禁じ、所在は 報告せさる(意譯)」と,ごれによって見ると白磁土に乏しく,燒成量も少なかったらしい。更に 王者と同じ器を一般が使用するのはいけないという點もあったと思う、しかし此の令がどれだけ守られたか、だけに 終ったのではないだろか.”

浜口良光 著,『朝鮮の 工藝』 (東京: (株)美術出版社, 1966), 51쪽.
“畵員引率は廣州の條に出ているけである。染付は李朝末期以前は廣州たけで燒いたもので他窯では燒いていない。使用範圍も王室宴禮用が多く官人の祭器, 酒器だけに使用を許されたこは前に述べた通りである。後期には文房具の染付も官人に許されてあり,水滴,化粧用具など一般にも黙認の形で許されたと思う。”

浜口良光 著,『朝鮮の 工藝』 (東京: (株)美術出版社, 1966), 56쪽.
“靑紅阿里器は回靑に銅分を混じたもので,文字通り靑紅色を發する。回靑を少量使って發色をよくするため銅分を入れたものであろう。この作品には時たま出會うだけで多く燒かれていない。白磁使用禁止は世祖の時代であるが,六十年ほと經て禁がとかれたのである。しかし己に官人等は白磁を使用しており,法令だけの解禁であろう。一面白磁の燒成量の增えた事を物語るものと思う。”

浜口良光 著,『朝鮮の 工藝』 (東京: (株)美術出版社, 1966), 71쪽.
“高麗白磁と稱さられるものもある。李朝白磁より薄手で, 精巧なものである。だが白磁の窯跡は見つかっていない爲に,中國製の輸入品でないかとさえ言われている。”

浜口良光 著,『朝鮮の 工藝』 (東京: (株)美術出版社, 1966), 97쪽.
“煙草は光海君十年(1618 元和4年)に日本から傳來したものであから,それ以前それ煙具というものはない”。
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